北新地競馬交友録

がんばろうKOBE

1995年1月17日に発生した『阪神淡路大震災』は一瞬にしてして人々の暮らしを変えた。
激震地区A市に住んでいたマスターの暮らしも一変。
自宅は倒壊し、まさかまさかの小学校の体育館暮らしを余儀なくされた。
何とか2ヶ月強は耐えたが、大阪の会社との通勤が難行苦行。
阪急西宮北口駅まで原付きで行って、そこから電車で梅田まで。
寒風吹き荒ぶ中、いくらダウンジャケットに身を包んでいるとは云え、これが毎日だと身に堪える。
更に体育館に充満する、何とも形容し難い淀んだ空気と、延々途切れる事のないお年寄りの、咳とも呻きとも聞こえる声にギブアップ。

必死で探した大阪のアパートは6畳一間で、西日に焼けた畳もそのまんまの、まさに寝起きするだけの悲惨な物件。
立地は難波の横の桜川でそのアパートの名を『太平第十住宅』と云った。
そんな部屋だが家賃はニャンと10万円プラス管理費。
震災難民の弱みに付け込んだとんでもない物件であった。
余談だが、その『太平住宅』は罰が当たったのであろう、その後倒産する事となる。
奥さんは神戸の会社に勤務していたので、とても通えないと、実家の鈴蘭台に身を寄せていて正真正銘のやもめ暮らしだった。

震災があろうが、待っちゃくれない仕事と手形。
今のブラックなんて生易しいもんじゃない会社で営業部長職だったマスター、年の瀬を迎える頃には、身も心もズタボロ。
何が堪えたかと云えば、武庫川を越えれば、何事も無ったかのように世の中が回っている事で、家すらない自分の境遇との落差を埋める事が出来なかったのである。
日曜日ともなれば、昼間から酒を呷って、チャリダーで難波の場外馬券場に突撃。
そこで、またボロボロにやられるのだから、完全にヤケッパチだ。
そんな1995年の『有馬記念』を先頭で駆け抜けた馬がマヤノトップガンである。

「俺ぁ、今年の『有馬記念』はマヤノトップガンで勝負を掛ける。馬主の田所さんは『阪神淡路大震災』で病院は崩れるは、弟夫婦は亡くされるはで、とんでもない厄災に見舞われた。英二のヒシアマゾン、豊のナリタブライアン、幸雄のジェニュイン、太のサクラチトセオーと強い馬がエッといるが、田原成貴とマヤノトップガンが恩返しをするんじゃねえかと思う。差し詰め仰木監督オリックスの『がんばろうKOBE』だ」と結論付けて、単勝を2万円、複勝を3万円購入して難波の場外でモニターを睨みつけていたマスター。

「マヤノトップガン先頭で4コーナーを回った!2番手はナリタブライアン!マヤノトップガン粘る!左ムチが飛んでいる!さ!ナリタブライアンが来るのか!ナリタブライアン来るのか!タイキブリザード3番手!サクラチトセオー!ヒシアマゾンも突っ込んで来た!マヤノトップガン先頭!マヤノトップガン先頭!2馬身から3馬身のリード!これは強い!マヤノトップガン先頭でゴールイン」
1着 マヤノトップガン 田原成貴
2着 タイキブリザード 坂本勝美
3着 サクラチトセオー 小島太
単勝が1300円、複勝が400円も付いた。

払い戻しを受け取り、チャリダーで難波場外馬券場の近所の立ち飲みで日本酒をグイグイ呷るマスター。
本来なら万歳三唱の大喜びなのだが、心は何故か沈んだままで、あの豚小屋のようなアパートには帰りたくないと、千日前の『とりよしチェーン』のキャバレーに。
「金ならある、今晩付き合えよ」
「いや〜ね!いきなりお兄さんどうしたの。ここはそんな店じゃないの。飲みましょ!」
泉ピン子をチョイとマシにしたような年増に軽くはぐらかされて、「だよな〜。まあいいや。あんたも飲みない」

もう、遠い昔の話しである。

さあ!『有馬記念』がやって来る!