北新地競馬交友録

明治と昭和の間で、ひと時の光を放ったのが大正。
そのデカダンスが幅を利かせる時代に、まるで正反対の生き方をした詩人がいる。
山村暮鳥である。
名前を聞いてもピンと来る方は少ないであろうが、この詩を見れば「あ〜学校で習った。」と膝を打つはずだ。

おうい雲よ
ゆうゆうと
馬鹿にのんきさうぢやないか
どこまでゆくんだ
ずつと磐城平の方までゆくんか

極貧の農家に生まれ、小学校中退後、10代前半で家出。
さまざまな職場を転々としながら放浪し、「肉から皮を剥ぐような暮らし」の中で、物を盗み、一椀の食物を乞うたことさえあったそうな。

その後、キリスト教と出会い洗礼を受けると、すぐさま伝道師となることを志願し、伝導学校へ入学。
抜群の成績をあげ、別科生として東京の築地聖三一神学校への編入を許された。
卒業後、秋田、仙台、磐城平、水戸などの各教会に勤務する事となる。

一方、文学への想い断ち難く、大正3年には、萩原朔太郎、室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする『人魚詩社』を設立。
伝道活動を続けながらも、詩壇に大きな波紋を投げかけ、『日本立体詩派の祖』と呼ばれるも、大正13年の師走。
41歳の誕生日と詩集『雲』の刊行を目前に、生涯を閉じたのである。

その山村暮鳥に桜をテーマにした詩がある。

さくらだといふ
春だといふ
一寸、お待ち
どこかに
泣いてる人もあらうに

能天気に花に浮かれる心をたしなめて、「泣いてる人」を思いやった、山村暮鳥の弱者に注ぐ視線が優しい。
今年の桜は切な過ぎる。
新型コロナウイルス蔓延を受け、日本中が泣いているのである。

『桜花賞』だ。
濡れそぼる雨に、花散らしの風。
散りゆく桜に待ったを掛けるように、仁川のターフで繚乱の様を繰り広げる18頭の乙女達。
武豊Jが17頭を引き連れての戴冠となれば良いのだが………….さて。